道草の友(シンガーソングライター・大久保雅永の日々)

ライブ情報: 4/13(Sat)open:17:30 start:18:00 ライブハウスコタン(20:00頃出演)

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 ライブハウス・コタン
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道草な話

 漠然とではあるが、僕はこう思っていた。60歳くらいになったら、髪も薄くなってくるに違いない。もともと髪の毛は細いし、家系的にもそれが順当なところではないかと。それでいいじゃないかと。
 突然始まった急激な脱毛におろおろするばかりで二週間が過ぎた。その間、脱毛のペースは衰えを知らず、むしろ激しさを増す一方である。むき出しになった地肌を鏡に移すたび、僕は途方に暮れてしまう。いったい今自分の頭部で何が起こっているのだろうか。できることなら、ミクロの決死隊になって、頭皮の上の歩いて聞いて回りたいくらいである。「おーい、いったいそこで何やってるんだよ」と。
 そろそろ覚悟を決めなければならない。いつまでも途方に暮れているわけにもいかない。人生の貴重な時間は確実に減っていくのである。そんなことに振り回されていてはもったいないではないか。世の中には禿げている人はたくさんいるわけだし、もちろん皆普通に生活しているのである。禿げを理由に社会的に不利益をこうむるといったようなことは何一つないはずである。(たぶん。)自分が気にしさえしなければ、全く今までと変わらない生活が送れるはずなのだ。そうだ、そうだ。
 ところが、そう簡単に行かないのが人間の厄介なところである。見た目なんか関係ないと割り切ることはなかなかに難しい。顔がいいにこしたことはないし、スタイルだって良くありたい。もちろん髪の毛はふさふさあったほうがいいに決まっている。だから気にしないわけがないのだ。何食わぬ顔をして街を歩いているように見える禿頭の人達だって、きっと心に少なからず屈託を抱えているに違いないと思う。いつもではないとしても、ふとした瞬間に自分の頭が禿げていることを思い出し、憂鬱な気分になるに違いない。それは避けようのない心の動きではないか。
 結局、その屈託と一緒に生きていくことになるのだろう。もちろん禿げだけが屈託の対象ではない。それ以外にもいろんなコンプレックスを抱えてみんな生きているのだ。だから僕も、禿げた頭と折り合いをつけながら生きていかなくてはならない。それはきっと時間が解決してくれるのだろう。
 それにしても、人生にはいろんな出来事が待ち構えているものである。そしてそれはいつも予期しない方角からやってくる。それはそれで興味深い。さて、次は何が起こるのだろう。できれば、楽しいことがいいな。