道草の友(シンガーソングライター・大久保雅永の日々)

ライブ情報: 4/13(Sat)open:17:30 start:18:00 ライブハウスコタン(20:00頃出演)

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 ライブハウス・コタン
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道草な話

 3月はそれこそあっという間に終わってしまった。年度末であり、おまけに仕事で欠員が一人出たので、本当に忙しかった。毎日ウンザリしながら仕事に向かった。子供の頃は苦痛な時間ほど長く感じたものであるが(たとえばつまらない授業とか)、それは終わるのを待っていれば解消されるものだったからである。仕事の場合、苦痛な時間(忙しい時間)はむしろ、終わってもらっては困るのである。山積みになっている仕事を片付けている時は、時間がいくらあっても足りない。焦れば焦るほど、時の流れはどんどん加速して行く。電車の時間を気にしながら、パソコンにかじりつく日々が続いた。
 無駄な時間というものは、大切なものである。特に僕にはそれを多く欲する傾向がある。それはおそらく僕が何らかの結論を出すのに、人一倍時間がかかるからではないかと思われる。必死に考えて何らかの判断を下したとしても、それが本当に自分の中に納得の行く形で落ち着くまでには、ある程度の時間が必要である。そしてただぼんやりと外を眺めていたり、だらだらと過ごしているうちに、いつの間にかふさわしい場所に物事が落ち着いている。そういう過程を経て、結論を出したり、行動を起こしたりしたい。そう願うのだけれど、現実はいつも気長に付き合ってくれるわけではない。だから気がつくと、おいてきぼりをくっているということになる。それでいいと思えることもあれば、それでは済まないことだってある。そういう時は、不安を抱えながらも足を踏み出さざるをえない。大抵、何かを見落としていて、後でそのツケを払わされることになる。どうもうまく行かない。
 昔は見えなかったエンドマークが、おぼろげながら見えてくると、我々は物事を逆算して考えるようになる。なんとか自分なりに帳尻を合わせようとする。そうなるとますます余裕がなくなってくる。それでも、と僕は思う。
 子供の頃、「レインボーマン」というヒーロー物のテレビドラマがあった。レインボーマンは心身共に疲れ果てると「ヨガの眠り」という状態になり、その眠りから覚めるとまた敢然と悪に立ち向かうのである。それは単なる睡眠ではない。頭のスイッチを切り、無念無想の状態になるのである。僕はインドの山奥で修行したわけではないので、到底そんな芸当はできないけれど、もう少しいろんなことを忘れて過ごす術を見につけられたらと思っている。そのスイッチが自由にオン/オフできたらずいぶん便利なんだけれど。