道草の友(シンガーソングライター・大久保雅永の日々)

ライブ情報: 4/13(Sat)open:17:30 start:18:00 ライブハウスコタン(20:00頃出演)

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 ライブハウス・コタン
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道草な話

 子供の頃、正月は必ず祖父母の家に年始の挨拶に行くのが習わしであった。祖父が着物姿で炬燵の向こう側に厳然と座っており、こちらが畳に正座をして「あけましておめでとうございます」と挨拶をすると、祖父も炬燵から出て、正座で挨拶を返した。父親と祖父の間でも同様の挨拶が交わされた。それからお年玉を貰い、お節をつつくという段取りである。僕は子供の頃から何故か挨拶というものが苦手で、この年始のやりとりも嫌でしょうがなかったのだが、その雰囲気は嫌いではなかった。何というか、厳粛で非日常な気分にさせられたものである。
 やがて祖父母が他界し、その家が取り壊され、正月の挨拶は姿を消した。その頃僕は東京で暮らし始めており、誰にも束縛されない自由な暮らしを謳歌していた。権威や格式を否定し、年長者への尊敬など無意味だと考えていた。サークルの先輩達には胡散臭がられ、バイト先でもしばしば上司と衝突した。折々の行事や風習にも全く興味を持てず、成人式にも出席しなかったし、お盆や正月に実家に帰ることも減っていった。それでも体に染み付いたものはなくなることはなく、テレビで田舎の正月風景などを見ていると、何となくほっとしたものである。
 そして気がつけば、いつの間にか僕は中年になっていた。結婚もし、子供も産まれた。両親はあの頃の祖父母と同じような年齢になっていた。ただ、自分の中にある考え方は基本的には変わっていないように思う。そうではあるけれど、昔に比べると考え方より体に染み付いたものの力の方が強くなってきているような気がする。歳のせいと言ってしまえばそれまでだが、自然な自分の感情を素直に受け入れられるようになってきたということかもしれない。もちろん昔に比べてというレベルではあるが。
 「よいお年を」とか「あけましておめでとう」という言葉を口にする時、昔と違って、そこに様々な想いが含まれている(あるいは想いを込めている)という感覚がある。それは、決して楽しいことばかりではないけれど、何とか来年も(あるいは今年も)やっていこうじゃありませんか、というエールの交換のようなものではないかという気がする。
 長い時間を掛けて暮らしの中で育まれてきた風習というものは、僕らの血液の中を今も流れ続けている。せっかくこの国に生まれたのだから、そういったものを味わえることを楽しみたいと思う。