道草の友(シンガーソングライター・大久保雅永の日々)

ライブ情報: 4/13(Sat)open:17:30 start:18:00 ライブハウスコタン(20:00頃出演)

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 ライブハウス・コタン
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道草な話

 今年の正月は、長野の実家で迎えることになった。ただし、上げ膳据え膳だった昨年までとは違い、食材の買い出しから調理、片付けまですべて我々がやらなければならない。毎年楽しみにしていた野沢菜漬けやお手製のおせち料理もない。我々はもうお客様ではない。そしてそこにいるのは、ブツブツと文句を垂れ流して暮らしている老いた父一人である。
 母が昨年他界してから、父は少しおかしくなったような気がする。記憶力が著しく低下している。何度も何度も同じことを聞く。そして母の不在とそれによってもたらされた多くのやるべきこと(炊事・洗濯、掃除その他諸々)がいかに大変かを延々とくり返し語り続けるのである。今まで母がいたおかげで、彼はほぼすべての時間を自分のためだけに使うことができた。それがいかに有難かったか、今身に染みて感じているに違いない。
 母の死以降、僕と兄は折に触れ実家に帰り、父の世話をしてきた。いろいろと公的な手続きもあり、とても父一人ではできなかったためである。あとはとにかく家事である。まるで家政婦のように、我々は実家に帰るたびに食事を作り、洗濯・掃除をし、クタクタになって東京に戻ることの繰り返しであった。しかし我々が疲れた最大の原因は労働による疲労ではなく、我々のすることにいちいち文句をつける父の発言によるものである。彼には彼のやり方や考え方があるのはわかる。しかし、わざわざ東京からやってきて世話を焼いている我々に対し、文句ばかりを言うのはちょっとどうかと思ってしまう。彼は昔からそういう性格で、今まではそういった事を母にぶつけていたわけだが、そう考えると何十年もそれと渡り合ってきた母の偉大さに改めて頭が下がる。
 僕は実家で暮らしていた頃から、父のそういう部分を蛇蝎のごとく嫌っていたので、東京で一人暮らしを始めた時は心の底からほっとしたものである。それから年月が経ち、少しはこちらも大人になったのだが、いざ正面から対峙してみると、なかなかすべてを受け流すことができない。僕は堪忍袋の緒が切れて、何度も父を怒鳴りつけてしまった。
 人生の最晩年にこんな事態になって、父は気の毒である。しかし、何とかもうひと踏ん張りして、残りの人生を楽しんでほしいと僕は思うのだ。だから文句を言ったり不幸を嘆いたりしてばかりいる彼を見るたびに、僕の中に言いようのない怒りと悲しみが湧き上がってくるのである。少しは意地を見せろ、と叫びだしたくなる。切ないくらいに。