道草の友(シンガーソングライター・大久保雅永の日々)

ライブ情報: 4/13(Sat)open:17:30 start:18:00 ライブハウスコタン(20:00頃出演)

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 ライブハウス・コタン
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道草な話

 子供の頃は、泣き虫な少年だった。悔しかったり、悲しかったり、怖かったりする度によく泣いた。母親からもお前は泣き虫だからとよく言われた。まあ、子供だから当たり前と言えば当たり前である。子供が泣くのは、誰かに慰めて(もっと言えば反応して)ほしいからである。そしてそれは主に母親だったがする。つまりコミュニケーション手段の一つである。一人きりの時は泣かない。誰かが見ている時に泣くのである。

 子供は泣いている時、いろんなことを伝えたがっている。ただ、うまく言葉にすることができない。場合によっては自分の気持ちを把握しきれていない。だから、成長して、言葉で伝えることが上手くなり、自分の気持ちを正確に把握できるようになると、我々はあまり泣かなくなる。泣くというコミュニケーション手段を使う必要がなくなってくるからだ。いや、泣かないというわけではない。泣く理由が変わってくるのだ。

 これは個人差のあることなので、もしかしたらわかってもらえないかもしれないが、僕は大人になってから、悲しい事や辛いことで涙を流す機会が減った。彼女にフラれた時、誰かに理不尽に罵倒された時、友達が死んだ時、両親が死んだ時。そういった時に僕は涙を流さなかった。人によってはそんな僕を見て、「冷たい奴だ」と言った。でも、涙が出てこないのだから仕方がない。そういう時に僕は何をしているかというと、起こった事柄についてひたすら考えている。なぜこんなことが起こったのか、何が原因なのか、回避することができたのか等々。一生懸命そんなことを考えているので、泣いている暇なんかないのである。これはやはり冷たいということなのだろうか。そうかもしれない。

 むしろ大人になって、というか歳をとって多くなったのは、感動した時、幸せな気分になった時に流す涙である。映画を見ていても、悲しいラストではなく、ハッピーなラストで涙が止まらなくなったりする。そういう時に溢れてくる涙は温かく、そして心地よい。心の中で固まっていた何かが溶け出すような気分になる。それはきっと必要なことなのだ。特に泣けない大人にとっては。

 大人になると、心を解放する機会は少なくなる。みんな社会の中で周りに気を使いながら生きている。そしてだんだん心が固まっていく。場合によってはそれに長い間気づかないこともある。それが原因で心や体を損なうこともある。そうならないように、僕らは時々温かい涙を流す必要がある。ひっそりと、そして静かに。