道草の友(シンガーソングライター・大久保雅永の日々)

ライブ情報: 4/13(Sat)open:17:30 start:18:00 ライブハウスコタン(20:00頃出演)

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 ライブハウス・コタン
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道草な話

 幸いなことに、今まで新型コロナとは無縁の生活を送っていた我が家であるが、先日ついに息子が罹患した。今までの情報を総合するに、どうやら家庭内感染はほぼ確定といったことらしいので、僕も覚悟はしていた。だが、妻も僕も感染しなかった。おかげで我が家の自宅待機期間は、ほぼ息子の療養期間で済んだ。

 息子の症状は、基本的には発熱だけだった。のどの痛みはなかったし、咳もほとんど出なかった。だから検査するまでは新型コロナではないんじゃないかと思ったくらいだ。でも、PCR検査では陽性だった。だから新型コロナで間違いないのだろう。家庭内感染が起きなかったのは、咳が少なかったからというのもあるのかもしれない。

 最近、しきりに新型コロナ対策を緩和する動きが見られるが、僕の肌感覚としては、全然収まっていない(むしろ身の回りで増えている)ような気がする。死者数も増えていると聞く。つまり感染状況ではない理由で緩和が検討されているということなのだろう。

 自宅待機明けの日に久しぶりに社員食堂へ行ったら、テーブルに設置されていたパーテーションがほぼすべて取り外されていた。パーテーションに慣れていたせいもあって、かなり違和感があった。グループで来た人たちが、楽しそうに(もちろんノーマスクで)会話しながら食事をしている。僕はなるべくグループがいないテーブルを探して食事をしたのだが、全然心が落ち着かなかった。しかしそれは飛沫感染するかもという心配からではなく、パーテーションで他人から遮られている安心感がなくなってしまったからだということに、しばらくしてから気が付いた。もともと一人が好きなので、むしろ僕はパーテーション大歓迎だったのである。マスク不要になっても、このパーテーションだけは残してほしいと思う人は少なからずいるはずだ。

 え?いない?いや、いるはずなんだけど・・・。

道草な話

 古来、競争のない立地に存在する食堂というのは、クオリティを求めるものではなかった。食堂があればよしという世界だったのである。国道沿いのドライブインとか、観光地の施設内にある食堂とかがそれだ。目的が食事ではなく、たまたま昼になったのでどこかで食事をとろうということであれば、それでよかったのかもしれない。そして昔はみんな食堂にそれほどクオリティを求めていなかった。ラーメンであればよし、カレーがあればよしといった感覚だったように思う。そもそも、ラーメンなんて滅多に口にすることがなかったので、ラーメンであるだけでもう大満足だったのである。

 それがいつからか、店側も客もクオリティを求めるようになった。グルメなんて言葉が横行するようになった。人々は様々な情報を入手して旅行先を選択するようになり、観光だけでは集客が厳しくなった。付加価値としての食事は、どんどんその地位を向上させていった。全国的に有名なチェーン店を出店させたり、ご当地グルメなんてものを作り出したりした。食のテーマパークなんてものが観光地になったりした。随分と豊か(というか、贅沢)になったものである。

 そんな中、頑固に(というか、旧態然として)存在し続ける昔ながらの観光地もある。そこでは、今も懐かしい「あればいいじゃない」的な食事を堪能することができる。僕らが温泉帰りに立ち寄った観光地はまさにそういうところで、施設内にいい感じの食堂が寄り集まっていた。それぞれの店から好きなものを持ち寄って食べられたので、家族は思い思いの店に散っていった。僕は王道のラーメンを選択した。出てきたものは、まさに昔懐かしい観光地のラーメンであった。でも、それでいいのである。そのラーメンは予定調和の中に存在しているのだ。施設側の思惑、立地、客の目的、不満、諦め、悟り。それらすべてが不思議なバランスで成り立っている。不当に高い値段で、ご当地グルメを満喫しに来たわけではないのだ。

 僕は総合的に判断して、納得した。

道草な話

 10月の初旬に親戚の結婚式があった。このところ親族の集まりと言えば葬式ばかりで、いい加減明るい話題が欲しかったので、久しぶりの祝いの席がありがたかった。都心のホテルだったので、家族3人、電車で向かった。

 友人の紹介で知り合ったという二人は、お互い大手企業に勤めていることもあって、なかなか盛大な式になった。滞りなく式は終わり、僕らはまた電車で家に帰ってきた。引き出物の中にカタログギフトがあり、検討した結果、ホットサンドメーカーを頼むことにした。以前からあったらいいねと話していた品物である。ネットから申し込めるということで、指定のサイトから注文したのだが、何ともシンプルなサイトで、注文しても受付メールも届かないし、発送状況も確認できない。まあ、カタログギフトなんてそんなものかと思いながら、そのうち忘れてしまった。

 月が替わったころ、そのカタログギフトの会社から注文した品物ではなく、手紙が届いた。何かと思って開けてみると、注文した品物が欠品してしまってお届けできないので、代わりの物を選んでほしいという内容だった。そして推奨品として別のホットサンドメーカーが紹介されていたので、それを頼むことにして、今度は添付のはがきで注文した。今の時代からすると恐ろしくフットワークの悪い会社だが、カタログギフトなんてこんなものかもしれないなと思っていたら、また月が替わったころ、次の手紙が届いた。頼み直した品物が入荷が遅れていて、来月のお届けになるとの内容である。今度は名前入りの丁寧な詫び状になっていた。僕はさすがに呆れてしまったのだが、同時に何となく楽しくなってきた。本当に来年になったら品物が届くのだろうか。いや、もしかしたら来月もまた手紙が届くのではないだろうか。今度はどんな内容がつづられているのだろう。そしてまた次の月にも詫び状が届くのだ。僕の想像の翼は限りなく広がっていく。そしてその次の月には何と・・・。

 この会社が潰れないことを祈らずにはいられない。

道草な話

 今の職場はスーツ着用が必須ではない。というか、むしろスーツを着ている人をほとんど見かけない。IT関連の企業は以前からそういうところが多かったようだが、自分がそういう環境で働いたことがないので少々戸惑っている。仕事を始めてしばらくの間は何となくスーツを着ていたのだが、最近になって僕も私服で出社するようになった。何となく周囲の雰囲気に押された部分もあるが、直接のきっかけは冬用のスーツが現在1着しかなく、新しいスーツを買うのがもったいなかったからである。どうせ新調するのであれば、私服のほうが安くすむ可能性が高い。もちろん、安い店で買えばの話ではあるが。

 とりあえずまずは既存の服で済ませられないか検討してみる。1日、2日であれば何とかなりそうだが、1週間を乗り切るのは難しそうだ。長い間自分の服には全く無頓着だったので、昔からあるもので済ませていた。改めて見てみると、ちょっと今の年齢で職場に着ていくにはふさわしくないと思われるものばかりである。仕方がないので、少しばかり買い足すことにした。

 久しぶりに自分の服を買いに行って、改めて思ったのは、自分には本当に色のセンスがないということである。思えば若かりし頃から、それが原因で何度となく悲しい結果を味わってきた。さすがに年齢を重ねて、「安全な組み合わせ」はある程度理解できるようになった。しかし、店に並んでいる商品を眺めていて、「あっ、これいいな」と思うと、大抵「安全」から逸脱した色をしている。そしてついついそれを買ってしまうというところは全く成長していない。気が付いてみれば、昔と同じように「悲しい組み合わせ」が誕生するのである。

 ただ、昔と違うところは仕事用の服であるということだ。デートに行くわけでも、飲みに行くわけでもない。とりあえずきちんとしていればいい。というわけで、悲しい組み合わせが週に何度が登場することになる。改めて、スーツというのはセンスのない人間には実に便利であることを痛感いたしました。

道草な話

 最近、身の回りの物を修理あるいは調整する機会が続いた。まず、トイレの貯水タンクの止水弁がおかしくなり、水が流れっぱなしになったので、交換修理した。既存の止水弁には毎年のように不調に悩まされていたので、一念発起して交換したのである。まあ普通は業者に頼むのだろうが、ネットで調べたところ、自分にもできそうだったので、部品だけ買って交換した。今のところ問題なく稼働している。

 続いて息子の自転車の調整である。スタンドがきれいに動作しなくなっていたので、機械油を注し、何度か動かしてスムーズに動くようにした。壊れて新品を買ってもらえると思っていた息子は落胆したようだ。

 ちょっと前にはビルドイン食洗器の修理もした。これはさすがにサービスセンターに電話して修理を頼んだのだが、やって来た作業員が排水ポンプが寿命で、部品が高価なので、年数からしても買い換えたほうがよいと言った(結局修理しないで帰った)のだが、ダメ元でバラしてみたら、排水ホースが詰まっているようだったので、それを押し流したらそれだけで直ってしまった。現在も元気に活躍中である。

 そしてついに今まで自重していたギターの修理にも手を出すことになった。バインディング剥離の再接着とネックの反りの矯正である。紆余曲折あったが、何とかある程度の成果は出せたと思っている。

 これらのすべての行為の根源はケチである。なるべくお金をかけずに済ませたいという思いである。こういう行為を「貧乏臭い」といって嫌う人もいる。僕は何か壊れるたびに修理して使っていた父親の背中を見て育ったせいか、壊れたり不調になったりすると、まず直せるか見てみるという癖がある。そしてうまく直せるととても満足感が得られるのである。もちろんうまくいかない時もある。それはそれで諦めがつく。

 今のところ次の修理対象は見当たらない。その出現をひそかに待ちわびている自分がいる。何かが間違っている。

道草な話

 いつものように電車に揺られていた。ひさびさの電車通勤にも、通勤ルートにも慣れて、いつもと同じ時刻の電車に乗っていた。日もいつの間にか短くなって6時過ぎにはもうすっかり暗くなっている。ぼんやり窓の外を眺めながら、もうすぐ最寄り駅に着く頃だと思っていたら、突然急ブレーキがかかった。その辺りはよく時間調整で止まるか止まらないかくらいまで速度を落とすことがあったのだが、この日は違った。電車は完全に停止し、車内は静まり返っている。しばらくして車掌のアナウンスが流れた。僕の降りる駅で人身事故が発生したというのだ。それだけ告げると放送は止んだ。かなりあわただしい雰囲気だけが伝わってきた。しばらく待つと、再びアナウンスがあった。運転再開の見込みは20時10分頃だと言った。車内に動揺が走った。「にじゅ・・・」という声があちらこちらから聞こえた。現在の時刻は18時50分である。混み合った車内で立ったまま1時間20分程待たされることになったのである。

 皆慌ただしくスマホを操作し始めた。家族に連絡しているのだろう。電話をかけている人もいる。アナウンスでは大変危険なので絶対に車外に出ないようにと繰り返し呼びかけている。問題は目の前の駅で人身事故が起きたことだ。一つ先の駅まで進んで振り替え輸送を利用することもできない。しかも止まっている場所からして、少し歩けば最寄り駅に着けそうな場所である。ここで1時間20分じっと立って待っているのはいささかつらい。降ろしてくれればすぐ家に帰れるのに。

 こういう時に騒いだり暴れたりしないのが日本人の特徴である。皆静かに次のアナウンスを待っている。だから僕も大人しく待つことにした。目の前の老人はかなり辛そうである。

 幸い(?)50分程で運転が再開された。電車を降りた時にはぐったりと疲れていた。僕はその辺の飲み屋で一杯やりたかったけれど、そんな店もそんな金もなかったので、仕方なく足を引きずりながら歩き出した。